奥山市長の四方山ばなし

笑いは、意志が創るもの・・・井上先生、さようなら

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  去る7月1日、東京有楽町の東京會舘で、本年4月9日にご逝去された井上ひさし先生を偲ぶ「井上ひさしさんお別れの会」が開かれ、私も仙台文学館の小池館長や赤間学芸室長ともども出席させていただきました。

 当日は、私が日程の都合でぎりぎりに到着したこともあって、会場に入った時は、すでに立錐の余地もないほどの、大勢の人が、ローズホールを埋め尽くしておりました。畳1枚あたり、5人はいたような気がすると申し上げれば、その盛況振りが、よりリアルにおわかりいただけるのではないかと思います。

 実行委員会の方にお伺いしたところ、この日は約千五百名の方が出席の予定で、遅れる方もいらっしゃいますから、今のところ千二~三百名くらいでしょうかとのこと。  半世紀にわたって、テレビ、演劇、小説とジャンルを越えた幅広い文学活動を展開され、また日本ペンクラブ会長、九条の会呼びかけ人など社会的な活動にも力を注がれた先生の、人と人とのつながりを大事にした長年のご交友の真価を見る思いでした。

 お別れの言葉を述べられたのは、作家丸谷才一、大江健三郎、演出家栗山民也のお三方。 それぞれに、生前の井上先生とのお付き合いを踏まえた、素晴らしい弔辞でしたが、中でも、文学者井上ひさしの原点には、苦しみや悲しみは、人生そのものに内在しているもので、そうした定めのもとに人間は、生きざるを得ないが、そうであればこそ、自分の外に意識的に笑いを作り出していかなくてはならないという覚悟があったというお話などには、改めて目からウロコと言いますか、なるほどと納得させられたのでした。

 「ひょっこりひょうたん島」で育ち、「青葉繁れる」に相好を崩し、「シャンハイムーン」に泣き笑いをした私とすれば、井上文学は笑いを希求している、苦しい時こそユーモアを忘れないその姿勢がすばらしいと思ってきましたが、それだけでは、やや皮相な見方であったようです。  苦しさ、悲しさこそが人生の本質的同伴者であり、だからこそ、乾いた雑巾を絞るように苦闘してでも、笑いを創り出す、壮絶な覚悟があったことに粛然とする思いです。

 井上ファンには周知のことですが、仙台に転居した頃の井上先生は、家庭的には極めて不遇な状況に陥っていました。5歳で、お父様が亡くなったあと、お母様が生計を立てようと悪戦苦闘するもうまくいかず、ひさし少年は、一関、八戸等東北各地を転々としたあと、家族とはなれ、仙台で、ラ・サール会が経営する「光ヶ丘天使園」に暮らすこととなったのです。多感な青春の真っ只中で、はからずも養護施設で暮らすこととなった少年の胸中には、実にさまざまな思いが去来したのではないでしょうか。

 人生の理不尽さに怒り、捨て鉢な気持ちになってもおかしくない少年の心を抱きとめたのは、自らを犠牲にして子どもたちによかれと尽くす修道士の方々の姿でした。昭和48年に発行された「四十一番の少年」には、この光ヶ丘天使園で暮らした頃の出来事や心情がほぼ等身大に映し出されているように思います。  井上作品の中では、地味な小品で、「青葉繁れる」と比べて、あまり多くの方に読まれてはいないかもしれませんが、井上文学の根っこを養った貴重な時代を想像しつつ、改めてページをめくったことでした。

 中学から高校にかけての4年間の仙台での暮らしを、よき師、よき友と出会った貴重な時代として、最後まで、仙台の街に思いを寄せてくださった井上先生に感謝しつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。